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三原市で不動産の賃貸・売買・管理・分譲を行っています、株式会社タカハシ「住まいの窓口三原宮沖店」です。
三原を代表するものといえば「たこ」や「やっさ踊り」などがありますが、今回は、約450年前から築城されたといわれる「三原城」についてお話します。
皆さんは、かつて三原城がどれだけ大きい城だったのか、ご存知ですか?天主台跡など、現在残っているものは当時のほんの一部だけなんです。
三原城の歴史ですが、
三原城は永禄10年(1567年)、毛利元就の三男・小早川隆景によって、大島・小島をつないだ埋め立て地に建てはじめられたと伝わっています。
現在は天主台や舟入櫓の一部しか残っていませんが、当時は、東は湧原川から西は臥龍橋付近まで約900m、南北には約700mもの長さだったといわれています。この中に本丸、二之丸、三之丸があり、櫓が32と城門が14もあるとても大きな城でした。特に天主台は広島城の天守閣が6つも入る日本有数の広さです。
満潮時に城の姿が海に浮かぶように見えたことから別名「浮城」とも呼ばれています。
ここで小早川隆景についてもご説明します。
小早川隆景は、毛利元就の三男として生まれました。隆景は、12歳で竹原小早川氏を相続し、天文19年には本家となる沼田小早川氏を相続しました。天文20年に沼田小早川家の高山城に入り、翌21年には沼田川を挟んだ向かいの新高山城。そして、永禄10年には、海の交通に直結する三原城の築城をはじめたと伝わります。
父である毛利元就には11人の子どもがいましたが、彼を助けるに足る働きをしたのは、長男の毛利隆元、次男の吉川元春、三男の小早川隆景だったといわれています。また、隆元が早くに病死したため、元就が最も頼りにしたのは、元春と隆景だったともいわれています。二人が、毛利の躍進を支える大きな存在となったことから、二人合わせて“毛利の両川”と呼ばれていました。
そんな三原城の現在ですが、
現在は、駅に隣接している天主台跡のほかに、中門跡、石垣跡、刎跡(はねあと)、船入櫓跡、船入櫓岩礁、が残っています。
最近では三原城跡の周りも綺麗に整備されているので、
みなさんも行かれてみてはいかがでしょうか?